人恋しさの旅
西行の旅の歌には、ひとりであることを期待する作品もいくつかあります。たとえば・・・
"遙かなる岩のはざまにひとりゐて人目つつまで物思はばや"
・・・の場合には、人目を気にしないで物思いにふけりたいという点では、そういう例にもなります。
しかし、いっぽう有名な
"さびしさに堪へたる人のまたもあれな庵ならぺむ冬の山里"
・・・が示すように、友人を求める気持も強いのです。
孤独を愛しつつ、同じように孤独を愛する友人を求める点では、孤独そのものにとじこもっている対人厭悪症とは違うのです。
"花見にと群れつつ人の来るのみぞあたら桜のとがには有りける"
・・・という例では、花見の人の来ることを「とが」として非難する口ぶりもうかがえ、これをテーマとした『西行桜』という世阿弥の作品もあったりします。
しかし、人をわずらわしく思いつつ、それでいて人を恋しく思うのです。
それは言葉としては矛盾していますが、人間の心理としては矛盾していません。それが真実なのです。
それは・・・
"花もちり人も都へかへりなば山さびしくやならんとすらん"
・・・においても同様です。
ここでは、さびしくなってしまうことであろうなあと詠嘆しているのです。
さびしさを求めての庵住まいであるものの、花も散り、人々が去ってゆくことは惜しいことなのです。
そのほか、自然の風物から人間の心情を思いやるものとして・・・
"ふりさけし人の心そしられぬる今宵三笠の月をながめて"
・・・があげられます。
これは「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」(古今集)をもとにしたものであり、月を通して古典的人物像を思い描いているのです。
関心は自然を見、旅をしながらも人間のほうにあったともいえるでしょう。