文化伝達としての旅 2

西行とは時代的にはほぼ一世紀あとですが、『とはずがたり』の著者が西行にあこがれながら出家して旅を続け、伊勢にたどりついたときには、神官のなかの「すき者ども」と和歌の贈答をしたりしています。


また備後へおもむいたときには、都の人ということで描いた絵を讃められたりもしていることは、いかに地方の人々にとって都の文化があこがれとなっているかを示すものです。


それより一世紀前の西行の時代においては、いっそう都への思慕があったであろうと想像させます。


そうした期待が、歌僧としての存在を許したと考えられます。


荒法師として有名な文覚が西行に対して、遁世の身の上ならば仏道修行に専念すべきなのに、和歌をよみ歩いていると立腹したことが『井蛙抄』にはあります。


しかし、そのことは逆に考えるなら、仏道修行もせずに和歌をよみ歩く僧を迎えるだけの条件が諸国に備わりつつあったことを示すのです。


"すぐる春しほのみつより船出して浪の花をやさきに立つらむ"


・・・には、「伊勢にまかりたりけるに、三津と申す所にて、海辺の春の暮といふ事を神主ども詠みけるに」とあるものであり、神官たちとの歌会を通じて、和歌の世界が地道に脈うっていることを感じるのです。


この作品そのものは、「海辺の春の暮」という題詠であり、形式的な美をねらったような印象のもので凡作にすぎませんが、和歌の世界の広がりは考えさせられるのです。

文化伝達としての旅

西行はもっとも人間らしい生活を求め続けたのでしょう。


それゆえに出家し、旅をし、歌い続けねばならなかった・・・。


それはこんにちのわたしたちが旅を求めるのと同じです。


生存権という言葉があるなら、旅行権というものも認められていいくらい、わたしたちには旅への希求があります。


それが西行の旅の歌への共感となってもいるといっていいのです。


西行の作品で詞書のついているのをみると「長楽寺にて、夜紅葉をおもふと云事を、人々よみけるに」という具合に「人々」と一緒に歌われているのがかなりあります。


いわゆる歌会での作です。


ただ、そうした歌会も、当時の歌壇の動向からは縁の薄いグループであったことは、川田順をはじめとするこれまでの研究でかなり明らかになっています。


何しろ当時公的な歌会には 度もその名が出て来ないのです。


したがって西行の場合の「人々」とは、風巻景次郎が『西行』のなかで結論づけているように、ごく限られた範囲のものであり、当時の歌壇の中心から「互角対等に迎えられる身分の人間ではなかった」のです。


しかしこのことは、記録には残ることのない多くの歌会が、全国各地で行なわれていたであろうということを逆に証明するものでもあるでしょう。


それは、全国各地の西行説話の存在からも証し得ますが、伊勢における神官たちの作歌サークルが西行をめぐって形成されたことを窪田章一郎の『西行の研究』は明らかにしています。

人恋しさの旅

西行の旅の歌には、ひとりであることを期待する作品もいくつかあります。たとえば・・・


"遙かなる岩のはざまにひとりゐて人目つつまで物思はばや"


・・・の場合には、人目を気にしないで物思いにふけりたいという点では、そういう例にもなります。


しかし、いっぽう有名な


"さびしさに堪へたる人のまたもあれな庵ならぺむ冬の山里"


・・・が示すように、友人を求める気持も強いのです。


孤独を愛しつつ、同じように孤独を愛する友人を求める点では、孤独そのものにとじこもっている対人厭悪症とは違うのです。


"花見にと群れつつ人の来るのみぞあたら桜のとがには有りける"


・・・という例では、花見の人の来ることを「とが」として非難する口ぶりもうかがえ、これをテーマとした『西行桜』という世阿弥の作品もあったりします。


しかし、人をわずらわしく思いつつ、それでいて人を恋しく思うのです。


それは言葉としては矛盾していますが、人間の心理としては矛盾していません。それが真実なのです。

それは・・・


"花もちり人も都へかへりなば山さびしくやならんとすらん"


・・・においても同様です。


ここでは、さびしくなってしまうことであろうなあと詠嘆しているのです。


さびしさを求めての庵住まいであるものの、花も散り、人々が去ってゆくことは惜しいことなのです。


そのほか、自然の風物から人間の心情を思いやるものとして・・・


"ふりさけし人の心そしられぬる今宵三笠の月をながめて"


・・・があげられます。


これは「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」(古今集)をもとにしたものであり、月を通して古典的人物像を思い描いているのです。


関心は自然を見、旅をしながらも人間のほうにあったともいえるでしょう。


礼儀は冨足に生ず

集団や強者が得をし、個人や弱者がいつも損をさせられてきました。


職場にはさまざまな慣行があります。


どう対処するかはあなたが決めることです。


社会人になると学生時代とは比べものにならないほど交友関係が広がりますが、相手のこちらを見る眼は概して厳しいのが普通です。


そうなると礼儀作法、つまりエチケットやマナーの心得が大きくものをいうようになります。


その昔、礼儀作法はしつけ教育という名前のもとに物心つくころより、お辞儀の仕方から箸の持ち方、食事の要領に至るまで親が手とり足とり教えました。


また学校には作法室があり日常の立居振舞いや言葉遣いまでキチッと指導したものです。


・・・ところが太平洋戦争の戦禍ですべてが廃櫨と化しました。


加えて食料不足で明日の糧さえも保証できかねる時代を迎えました。


社会秩序は失われ、生活に対する価値観も利己主義が幅をきかせたために、礼儀作法どころではなかったのです。


しかし現代は違います。


経理 転職などを考えているのなら、なおさらこのような社会の仕組みについてはよく勉強しておいたほうがいいでしょう。

脳波の手がかり

脳波は1929年にドイツの神経科医ハンス・ベルガー博士が発見したものです。


その名にちなんでベルガー波とも呼ばれました。


彼は人間の前頭部の皮膚は電極針をさしこみ、それを導線で真空管につないで増幅させてみると、独特の曲線を描写することができました。


その後多くの学者が追試して確認し、これは無数の脳細胞から発する電流であるとして「脳波」と名づけられたのです。


もっとも、今日では脳細胞そのものよりも、むしろ細胞から出る樹状突起の活動によると考えられています。


・・・その後、電気工学の発達によって、より精密に脳波をとらえることができるようになりました。


今日ではただ頭の皮膚に電極を糊で貼りつけるだけで、自動的に流れる紙の上に100万倍にも増幅した脳波を描く装置がつくられました。


脳波は人間の精神状態(殊に意識状態)を実に見事に表現するのです。


フランスベッドの上で目をさましながら目を閉じて、無念無想のようにしていると、1秒間に8から12サイクルの見事なサイン・カーブを示します。


これがα波なのです。

阿児奈波(おちなは)島漂着

沖縄ツアーなどが人気でとなり、毎年夏でなくても数多くの人が訪れる小さな島、沖縄。


その沖縄が歴史書にはじめて登場したときのことです。


天平勝宝5年といえば、東大寺大仏開眼の翌年で西暦753年。


中国は安禄山反乱の2年前で、遣唐使が帰航中嵐にあい、4隻の船団が前後して阿児奈波島に流れつきました。


島名は万葉仮名ですが、これは明らかに沖縄島のことで、書物に沖縄島の名前が出たのは、これが最初との定説があります。


「この島は何という島ですか」


「阿児奈波島でえ侍る」


・・・と方言で答えた島民の顔も見えるようですね。


・・・というのは「き」を「ち」と発音するなまりが、そのまま出ているからです。

ガット研究の動向と問題点 8

完全自由化論は、どのような国々のどのような経済的利害にもとづくものであり、またどれだけの客観的な可能性をもちうるのでしょうか。


第四に、以上の点はガット体制の歴史的展開と70年代以降におけるいわゆるガットの空洞化傾向をふまえた場合、とくに重要とならざるをえません。


周知のように第二次大戦後の世界貿易は60年代の安定成長期を経た後、70年代にははげしい構造変化の時代を迎えています。


国際収支の不均衡の拡大、変動相場制への移行による為替レートの不安定、累積債務問題に象徴される南北問題の激化、EC・米加自由貿易協定などにみられる地域主義の台頭など、従来の国際経済秩序を根底から揺がすような現象が次々に生起するにいたっているのです。


いまやガットの標榜する無差別・多角的な自由貿易に代って、差別的・双務的な管理貿易が世界を支配しようとしているのであり、その点ではガットにとっては冬の時代が訪れようとしているのです。


そうしたなかで現在進行しているウルグアイ・ラウンドは一体どのような意義をもち、世界貿易をどのように方向づけようとしているのでしょうか。

ガット研究の動向と問題点 7

それらは一部はガット枠内の明示的な例外措置として、他の一部はガット枠外のいわゆる灰色措置として数多く存在しています。


ガットの外見的な理念主義は、実はこうした内部的な現実主義によって支えられてきたのです。


第三に、ガットにおける農業の特殊な位置づけについてです。


ガットの現実主義がもっとも鮮明に示されているのが農産物の取扱いにおいてでした。


ガット発足当初より農産物については輸出奨励金、余剰農産物の処理、輸入数量の制限などの原則に背馳する措置が一定条件の下で認められており、その点では一般工業製品とは別扱いとなっていました。


農産物は自由貿易原則にはなじまないというのが、ガットの当初からの基本認識だったのです。


その背後には、当時アメリカが大々的に余剰農産物の輸出を行なっていたという事情もさることながら、各国とも国内に複雑な農業問題をかかえ、多様な農業保護政策を展開していたという事実がありました。


それを無視して形式的に自由貿易原理で押しつけてみても実効があがらないばかりか、ガットからの離反を招くばかりであるというのがガットの判断であったのでしょう。


そうした事情は現在でも強められこそすれ、いっこうに弱まっていないといっていいです。


とするならば、現時点において農業保護の全廃、農産物の完全自由化といった19世紀の自由貿易論を彷彿させる議論が改めてガットの場で議論される理由は一体どこにあるのでしょうか。

ガット研究の動向と問題点 6

こうしたガットの中途半端な性格は一つにはその成立過程の特殊事情に起因するものですが、より基本的には各国の貿易利害の調整の場というガットそのものの性格に照応しています。


こうした三つの側面を巧みに使い分け、状況の変化に対応することによって、はじめてガットは現在まで存続しえたのです。


第二に、ガット・システムにおける基本原則と運用のギャップ、建前と実態との乖離についてです。


しばしばガットは多角主義、自由貿易、無差別を原則とする国際通商協定であるといわれます。


事実、ガットはその前文において「関税その他の貿易障害を実質的に軽減し、及び国際通商における差別待遇を廃止するための相互的かつ互恵的な取極を締結すること」をうたっています。


こうした基本原則に沿ってガットが第二次大戦後の世界貿易の拡大に大きな役割を果したことは疑いないとしても、しかしそのことは以上の原則がいつ、いかなる場合でも100%強制され、実現されたことを意味するものではけっしてないのです。


むしろ逆です。


そうした建前は建前としながらも、ガットはこれまでその実際の運用では、きわめて弾力的かつ柔軟に対処してきました。

ガット研究の動向と問題点 5

同時に先にみたようなガットについての研究状況をふまえた場合、そうしたガットと農業の特殊性に立ち入るに先立って、ガットそのものについての概括的な分析を行なっておくことが不可欠です。


そうしたガットの基本的性格そのメカニズムと限界についての一般的認識をふまえることによって、その農業問題に対する特殊な関連のあり方もはじめて十分に理解することが可能となるでしょう。


そうした点からいって、さしあたり以下での分析視点として設定されねばならないのは次の諸点です。


第一に、ガットとは何かという、ガットの基本的仕組み・システムについての問題です。


後にくわしくみるように、形式的にみればガットは国際条約(国際協定)、国際交渉の場、国際機関(国際機構)という三つの性格をあわせもつ多面的な組織です。石塚孝一氏によると、同時にこの三つの側面はいずれもそれ自体としてはきわめて不完全・不徹底であるという特徴をもつのです。


ガットは不完全な国際条約、不完全な国際交渉の場、不完全な国際機関の統合体なのです。